言葉隠: 武道と日本語

著者: ネルソン・ペコラ

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僕は8年間抜刀道を練習したり、5年間、日本語も勉強したりする。よく、日本人に「なぜ日本語を勉強していますか」と聞かれる。数年前、日本語初級の時、僕は「居合道」を練習したいと答えると、日本人には無表情があった。「てっきり、日本人が居合道というのを知っているだろう」と考えてしまったからだ。

僕は、日本語を間違えたと思ったので、絶対に言語のことをたくさん学ばなければならなかった。

子どものころから、日本語が好きである。中学でひらがなを覚え、大学で日本語授業もやった。でも、大人になって、勉強をやり直した理由は武道だった。日本に住んでいる先生と話したいし、武道に関する本を読みたいし、だから、日本語学校に入学した。

2024年の夏には、アンソニー・ディーンさんと一緒に日本語学校で戸山流抜刀道の演武をした。観客たちはほとんど日本人や日本語学生なので、日本語で武道の概念を伝えるために準備しておいた。チャレンジだったけど、一生懸命頑張った。しかし、普通の日本語と道場で使う日本語の違いに気づいた。

もっと考えれば考えるほど、違うものももっと増えていった。

日常の日本語に比べて、道場の言葉は意味がとても違うし、専門用語になるし、昔の言葉もたくさんある。

アメリカ的な日本語

アメリカの武道の団体には、日本語の利用者が多い。「先生」とか、「気」とか、「剣術」などをたびたび聞く。でも、アメリカの武道家はほとんど日本語が話せない。アンソニーさんが書いた通りに、アメリカ人は何世代にも武道を教えてきた。そうすると、武道の単語の発音などがだんだん変わって、元の文脈を隔ててしまった。

例えば、「剣術」というのは、日本では、刀を使う様々な武道の意味である。アメリカでは、特定の意味がある。抜き放った後のパリーなどの戦闘技術である。

アメリカに住んでいる武道家が、「フランスのフェンシングは一番人気の剣術」と告げたら、「馬鹿らしい」という答えが返ってきた。

これはアメリカ人が間違っているのではない!そういう言葉は、英語圏で使うと、アメリカにある武道のコンテキストでは正しい意味である。例えば、「プリン」というのはイギリスでも、アメリカでも、意味が違う。その食べ物は他の物なのに、どちらも「美味しいかな〜」と思う。

それで、「居合道」や「抜刀道」を別々な場合に使っている。英語で話しながら、「居合道を居合刀で練習している」という言葉が多い。でも、日本では、「抜刀道を模擬刀で」というのが多い。「居合」というのは比喩表現なので、日本人はあまり知らない。しかし、日本人が刀を使ったことがないとしても、「抜・刀・道」は漢字で簡単に理解できる。そして、日本の武道家にとって、「居合」より一般的である。

意味が違わなくても意味の重みが変わる単語もある。例えば、「先生」とか、「気」などは日常の言葉だけど、アメリカでは特別になりそうだ。よく、だれが「先生」という言葉を使えるか、4段以上とか6段以上などしか使えない意見も多い。

日本語でもこのようなことがある。日本でアメリカンドッグは特別なものです。アメリカでは、アメリカンドッグはコーン・ドッグなどの総称だ。そして、英語では、「chance」というのは日常の言葉だけど、日本語では、「チャンス!」と呼ばれる特別な言葉になった。「chance」に比べて、「チャンス!」は意味が重い。

専門用語や慣用句

武道の専門用語を考えるば考えるほど、複雑になりそうだ。僕の推測では、4つの主要なカテゴリがある:

  1. 日常の言葉

  2. 日本語でも専門用語

  3. 昔は同じだったが、今は慣用句になった言葉

  4. 古風な言葉

日常の言葉

僕が日本語勉強始めたところには、単語がたくさん分かって、びっくりした。「姿勢」とか「間合い」など、日本にある単語は、

日常の言葉だけである。もしアメリカの武道で使うと、意味は特別になる。

別に、「稲妻」など言葉は、日常のことである。技の名前になると、隠喩にする。技の名前のために、ほとんどこういうことを古流が使われる。でも、昔の古流に比べて、戸山流はふつうに簡素な名前、「一本目」とか、「六段切り」とかを使う。時々、「波返し」とか「霞」とかの名前もあるけどふつうは簡単だ。戸山流の生徒たちはあまり古流の文化を経験できないので、こいう使い方があまり分からないかもしれない。

日本語でも専門用語

日常みたいな言葉も専門用語であるとびっくりした。例えば、「目付け」や「残心」は漢字お読めば意味が分かりやすい。でも、会話の中では説明が必要である。そのような言葉は比喩表現で、日常の言葉ではない。

そして、日本からアメリカに来た専門用語は、日本文化の文脈がなくなることもある。「序破急」はよく、アメリカの道場で使われて、型のアドバイスである。でも、雅楽とか、演劇とか、韻文などの文脈がない。さらに、「遅い、中速度、速い」の順序しかない。型のアドバイスについて間違いないのに、ニュアンスもない。もし、アメリカ人は元の意味が分かったら、型で物語を伝えることに気がつくかもしれない。しかも、アメリカの文化にもそのような物語風があるので、三幕構成などで考えると、型に役立てる。

昔は同じだったが、今は慣用句になった言葉

昔に使った武道の単語も多い。戦国時代の言葉は、イギリスのエリザベス朝、シェイクスピアみたいな言葉と同じようである。

例えば、シェイクスピアが使った「graceful」というのは、神様から特別な恩恵を授かった意味だった。

時とともに、その意味が変わった。文字通り、隠喩になった。「御利益」から「優雅」になった。

「真剣」とか、昔の武道の言葉も同じく進化を遂げた。日常の意味は真面目のことであるけど、武道で本物の刀だ。刀を使う闘争は真面目だったという刀の言葉、つまり、真剣が真面目の意味になった。それで、「真剣勝負」という言葉も「大真面目」の意味になった。

古風な言葉

日本語初級の時、僕は時々武道の単語を会話で使ってしまった。ある日、日本語授業で、「毎週、農場から野菜ボックスをもらいます」というのを言いたかった。ワニカニで勉強していて、全部の言葉が分かったつもりだった。そう考えると、「農民からもらいます」と大見得を切ってしまった。後で、「農民」は農場の人だけでなく、農奴制の人の言葉だと学んだ。

このような言葉が武道にたくさんある。例えば、礼儀の意味を伝えたい場合は、「礼法」を使っている。

農民とか礼法という言葉は、日常よりも「将軍」という番組を見ると分かりやすい。

関係、共同、コンテキスト

では、どうしてそのことは大切なのでしょうか?

どうして、古風な言葉を使っているのでしょうか?

どうして、アメリカと日本と言葉の意味の違いで、面白みがあるのでしょうか?

武道について、本やビデオがたくさんあるのに、本当に学べるのは先生に教えてもらうことだ。機微なことが大事だし、体験も何年間かかる。先生のフィードバックも、手応えも大切である。

武道の流派はほとんど、直接指導のほぼ途切れない系譜がある。その関係は一番大事だと思う。戸山流にとって、中村先生に指導を受けた人は少なく、英語でその機微を説明できる人はさらに少ない。日本語が分かれば、日本に住んでいる先生たちと話せて、旧世代の先生に指導を受けることができる。

武道の団体の関係も保つことができる。剣術はすでに不人気なので、日本人もアメリカ人も、ほとんどだれも刀を持ったことがない。団体は小さいので、エバンズ先生とかドラウディ先生のような日本人の関係を、若者も作ることが必要だと思う。もし、日本にある大会で喋られると、そのような関係ができる。

最後に、文脈やニュアンスが分かると、武道の稽古に批判的思考ができる。序破急などの意味を知ると、他の芸術の関係も味わうことができる。自分の稽古にも役立って、味わい深いことを伝えられる。

その観念は最新ではないけど。昔から剣士は禅とか、茶道とか、書道をとおして武道を考えている。実は、戸山流と中村流の基本的な斬りは、書道の永字八法から作られた。日本の武道はいつもそのコンテキストに存在していて、それを探求することで、武道の理解が深まることになる。

永字八法

使っている言葉を考えると、記号から意味になる。もし、意味を取り入れれば、意味を使って武道に役立って、生徒たちに教えることができる。








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言葉隠: Budo and Modern Japanese Language